RUSH
【ミニチャンプス マクラーレンM23 J.ハント F1インジャパン 1976】
映画にも描かれたハントとラウダの1976年の争い。ヘスケスからの下剋上で成り上がってきたハントの初のタイトル争いと、ラウダのドイツGPでの大事故と復帰という出来事によってドラマを生みます。
全16戦中、前後半各7戦の有効ポイントによって争われた1976年シーズン。前年を圧勝したフェラーリの勢いは変わらず、前半6戦を5勝でスタートダッシュを決めました。落としたスペインGPは一時マクラーレンの車両規定違反によってハントの優勝が取り消されており、シーズンはフェラーリ開幕6連勝という最高のスタートを切りました。
転機となったのはかの有名なドイツGPで、ラウダは九死に一生を得たものの大クラッシュとやけどによって戦線離脱を余儀なくされ、その間ハントがポイントを積みかさねます。スペインGPの失格処分も取り消され、ラウダとのポイントを大きく縮めて迎えた最終戦の舞台は日本。大雨の富士でレース続行を危険視したラウダが棄権したことで、ハントは初めてにして唯一のタイトルを手にしました。
既に74年にタイトルを獲得したM23の改良型で挑んだ1976年シーズン。大型インダクションポッドが禁止されたことで、L字型の特徴的なインダクションポッドを搭載しています。2014年にこの年の戦いが映画化されたことで、ここぞとばかりにミニチャンプスが再販を行ったため、通常版はもちろんタイトル決定の日本仕様など、バリエーション豊富に手に入りやすい1台となりました。
ロックスターのような風貌と、酒とタバコをこよなく愛した自由人として今なお人気の高いハント。1973年にヘスケス卿のチームと共にF1に参戦し数年下位チームで苦戦しましたが、1975年の初優勝で実力が認められマクラーレンへの切符を獲得、念願のタイトルを獲得しました。最終戦のレース終了時には順位情報が混乱しており、タイヤ交換の交代でチャンピオンを逃したと思い込んだハントは激怒したというエピソードも残ります。
そうした派手な出来事ばかりが注目される彼ですが、レース前には嘔吐する癖があるなど神経質な一面を持ちました。翌年はタイトルを逃すと79年にはウルフに移籍、そして競争力の無さに失望し、7年も経たないうちにそのキャリアを終えます。引退後はF1解説の傍ら趣味のセキセイインコのブリーダーとして静かに暮らしていましたが、93年に心臓発作で急逝。わずか45歳の若さで生涯を終えます。
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