フェラーリ 126C2 D.ピローニ サンマリノGP

オリジナルモデルフェラーリ1982

加害者の汚名

【ブルム フェラーリ126C2 D.ピローニ サンマリノGP 1982】

ジルの悲劇的な事故死に必ず名が挙がるのがピローニ。チームオーダーを無視した加害者だと批判されることも多いですが、客観的に彼を評価する声もあります。

建設業を営む父の元、裕福な家庭で育ったピローニ。高度な技術教育を受けていた彼はレースでもその知識を背景にした論理的なアプローチを好んだとされています。

1978年にF1デビューしすぐに才能を見せるも低迷していたティレル、絶対的なエースが存在したリジェでの下積みを経て、1981年に晴れてフェラーリ入りをしました。

F1ではわずか1勝ながら1978年にはルマン24hで総合優勝を果たすなど、その才能はジルに引けを取らなかったと言われます。

当時既に絶対的なエースだったヴィルヌーブとは生い立ち・性格・走り方の全てが正反対であったものの、二人は気が合ったと言われます。代表のエンツォもヴィルヌーブ同様に彼を寵愛し、そのサポートの甲斐あって81年の後半には徐々にジルの成績に追いついていきました。

しかしどれだけ成績が伸びても全ての関心はジルにのみ向くばかりで、これに徐々に嫉妬心を覚えたとの声もありますがその真偽はわかりません。

サンマリノGPでの追い抜きは故意か曖昧な指示の結果か、事があまりに大きくなった今では何を聞いてもそれが真実だと受け止める人はいないでしょう。

ジルの死後、コンスタントに表彰台を獲得しタイトル獲得の最有力候補だったピローニですが、ドイツGPで同郷の友人プロストに激しい追突事故を起こし、その際の怪我によってF1キャリアは断絶します。

未出走ながら戴冠にわずかな可能性が残った最終戦でしたがウイリアムズのロズベルグが上回り、無冠のままF1を去りました。

引退後はモーターボートレースに参戦しますが、この事故でピローニ自身もまた1987年に他界。サンマリノGPの真実は完全に闇の中へと消えました。

唯一明らかな事実はジルの死によって跳馬の王座のためにピローニは戦い続けるしかなかったということだと思うのですが、僚友の死とタイトルへの重責を受け止めながら戦った彼が深刻な事故を起こしてしまったというのは少し納得できてしまう部分もありますね。そう思うと彼もまた事態を管理できなかったチームによる被害者なのだろうと感じます。

ピローニ亡き後、彼には残された双子の子どもがいましたが彼らには「ジル」と「ディディエ」というこの年フェラーリで戦った2人の名前が授けられました。このうちジル・ピローニ氏は現在メルセデスF1のエンジニアとして、ピローニ家にタイトルをもたらしています。

彼が戦ったジル・ヴィルヌーブの歴代マシン特集はこちら。このピローニを含め、関係深いドライバーの紹介も含め、そのキャリアを追うことができるように記載しましたのでぜひご覧ください。

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