フェラーリ 126C2 G.ヴィルヌーブ ベルギーGP

オリジナルモデルフェラーリ1982

その最後

【ミニチャンプス フェラーリ126C2 G.ヴィルヌーブ ベルギーGP 1982】

前戦サンマリノGPでの一件で、チーム全体に対しての怒りがピークに達していたジル。イモラをヘリで早々に離れると、ピローニとは言葉も交わさないままベルギーGPへと臨みます。

イモラでの一件からわずか2週間、ゾルダーを舞台に行われたベルギーGP。ジルはピローニはもちろんフェラーリチームに対しても怒りを持っていたと言われ、通常ではない精神状態でこのレースに挑むこととなりました。

その予選、そのピローニにわずかに負けていたことを知ったジルは、終了間際に再びアタックに出ます。この際ジルはスロー走行をしていた前方のマーチのマスをアウト側から抜こうとしますが、同じくアウト側によけてレコードラインを譲った彼に追突。激しくマシンは舞い上がりジルはシートごと放り出され、コース脇のフェンスの支柱に落下衝突。叩きつけられたジルは病院で死亡が確認され、32歳でその生涯を終えることとなりました。

この事故を受けフェラーリはベルギーGPの出走を見合わせました。その後のシーズンをピローニが戦い続けますが彼もまた事故によりキャリアを絶たれ、不運の連鎖が続きます。代役のタンベイとアンドレッティらの活躍でコンストラクターズタイトルは獲得しますが、念願だったドライバーズタイトルは叶わないまま、悲劇を残してフェラーリはシューマッハを擁するまでの長い間、ドライバーズタイトルを獲得できない暗黒期を迎えることになりました。

彼の死を偲んだカナダ政府は遺体の収容に軍用機を派遣するなど国を挙げての追悼の意を示し、モントリオールサーキットはジル・ヴィルヌーブサーキットと名を改められるなど、その存在は今なお残り続けています。

ジルがF1に参戦したのは6年、フル参戦はわずか4年という短いキャリアでした。67戦6勝2PPという記録は突出したものではありませんが、その攻撃的な走りと悲劇的な結末で伝説となっています。どんなマシンもねじ伏せて走る天性の速さは疑いのないもので、タイトルを争うようになればクレバーな走りに転じたのか、81年のモナコやスペインのような驚異的な勝利をもっと見せてくれたのか、彼が数々の未完の片鱗を見せたまま去ったことで、人々は今も彼を偲び、存命であればの「もしも」を想像してしまう、語り継がれるドライバーなのだと思います。

ジル・ヴィルヌーブの歴代マシン特集はこちら。関係深いドライバーの紹介も含め、そのキャリアを追うことができるように記載しましたのでぜひご覧ください。

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