マクラーレン初のタイトル獲得

【スパーク マクラーレンM23 E.フィッティパルディ 1974】
前年覇者スチュワートが引退し、ロータスの競争力が低下したこの年。突出したチームは現れず、7人もの優勝者が表れる混戦の年となりました。

全15戦のうち、前半7戦と後半6戦の有効ポイント制で争われた1973年シーズン。過去2年を争ったティレルとロータスの速さは抜きんでたものではなくなり、開幕7戦で6人のウィナーが誕生する大混戦となりました。

最終的にタイトル争いは最多3勝を挙げたマクラーレン移籍初年度のフィッティパルディと、1勝ながら表彰台でポイントを積みかさねたフェラーリのレガツォーニの戦いになりました。
フェラーリは新鋭のラウダが速さを見せたことでポイントを集中できなかったことに加え、同点で迎えた最終戦で致命傷となる痛恨のステアリングトラブルで無得点に終わり、レガツォーニはタイトルを逃しています。

この「M23」はインディカー用に開発されたマシンがベースでありながら導入された1973年に3勝を挙げる活躍を見せました。この年はコンストラクターズ別で最多となる4勝を挙げ、マクラーレンにとって初めてのドライバーズ・コンストラクターズの両タイトルをもたらします。
またマクラーレンはこの年からマルボロとのスポンサー契約を開始し、1996年まで続く黄金タッグが始まったシーズンとなりました。

チームを移籍して初年度ながらチャンピオンを獲得し、タイトル数を「2」に伸ばしたフィッティパルディ。まだ若くF1でトップを走り続けるかと思われましたが、翌75年にラウダに敗れると76年からは同族運営のコパスカーに移籍。母国を挙げてのプロジェクトでしたが競争力がなく、以降1勝もできないまま1980年に引退します。
F1引退後はCARTに参戦して北米でのキャリアを歩んだほか、後進たちのアドバイザーとして多くのブラジル人ドライバーのキャリアを支援しました。
偉大な先駆者の彼を追い、後にピケやセナなど有力ドライバーが続々デビュー。若くして大成した割に後半のキャリアは今一歩だったフィッティパルディですが、ブラジル人F1ドライバーの先駆者として偉大な功績を残しました。
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