馬が合わない一年
【アシェット フェラーリD50 J.M.ファンジオ 1956】
メルセデスが撤退したことで1956年のチーム移籍を迫られたファンジオ。古巣マセラティに戻るか、撤退したランチアの資産を引き継いだフェラーリに移籍するかの二択でしたが、ファンジオはキャリアではじめて跳馬へと加入します。
全8戦中5戦の有効ポイント制だった1956年、初年度からあった「マシンをシェアして完走した場合、獲得したポイントはシェアしたドライバーに分配される」という規則が継続して適応されました。過去主要なドライバーは自身のみで完走しフルポイントを獲得してタイトル争いを進めましたが、この年のファンジオはこのマシン共有ルールに助けられることになりました。
ファンジオにとっては初めてのフェラーリでしたが、代表エンツォとは関係がうまくいかず、これによってチームとも良好な関係とは至りませんでした。 一説には、個人で契約管理をしていたこの時代の他のドライバーとは異なり、ファンジオは専属のマネージャーを雇っていたことでドライバーの管理を望むエンツォの機嫌を損ねたとも言われます。 この不仲に起因してかマシントラブルも頻発し、シーズンではリタイアを期するもチームメイトのマシンを乗り継いで何とかポイントを獲得するというレースが続き、前年までとは異なり他のドライバーと僅差で争うタイトル争いとなりました。
マシンD50は正確にはランチアD50というのでしょうか。アスカリのためにランチアが開発していたマシンを、撤退したチームから受け取って改良したものです。初めてサイドが突き出る形をしていますが、何とここには燃料タンクが搭載されているそうです。クラッシュ時にすぐ火を噴きそうですが大丈夫なんでしょうか。それにしても、フェラーリで栄光を極めたドライバーが残したものがこうしてフェラーリに戻り、タイトル争いに導くとはいい話です。
最終戦の時点で20歳以上若いチームメート、ピーター・コリンズにも逆転の可能性もあったのですが、リタイアしたファンジオに自分はまだ若いからとマシンを譲り共同で完走、ポイントが分割されたことでコリンズのタイトルは潰え、この心づかいでファンジオは4度目のタイトルを獲得することができました。この時代F1草創期において有名なエピソードの一つのようです。この牧歌的な感じがする1950年代はいいですね。ファンジオのタイトルの中では最も大変だったであろうフェラーリでのタイトル獲得ですが、エンツォとの関係を改善するには至らずわずか1年でチームを去ることになりました。
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