無冠からの脱却
【ミニチャンプス ウイリアムズFW14B N.マンセル 1992】
前年から競争力を見せ躍進したウイリアムズがついに本領発揮。アクティブサスペンションなどハイテク装備を武器に支配的な速さを見せ、16戦10勝を挙げてシーズンを独走しました。
全16戦で争われた1992年シーズン。アクティブサスペンションを搭載したFW14Bを乗りこなすマンセルはチームメイトのパトレーゼですら止めることができず、開幕5連勝の勢いそのままにタイトルを獲得。これまで86年、87年、91年と3度もタイトルに挑戦しながらわずかな差で敗れ続け、無冠の帝王の称号を手にしていたマンセルでしたが最初のタイトルは実にあっけないものとなりました。
第6戦モナコGPでは首位走行中のタイヤトラブルによって緊急ピットイン、変わって首位に立ったセナを猛追する歴史に残るバトルを繰り広げます。トラブルによって複数のリタイアを期したものの完走レースではすべて1位か2位でのフィニッシュ。特にポールポジションは年間14回獲得という今なお破られない年間の獲得率を樹立し、まさに無敵の走りでタイトルを掴みました。
F1史に残る名デバイスの一つとして君臨するアクティブサスペンションを武器に、シーズンを独走したFW14B。ホンダのワークスエンジンを奪われパワーで勝てないと悟ったウイリアムズはハイテク装置の開発を進め、88年の初投入から地道に開発が進められてきたデバイスが開花します。まだGPSの存在しない当時、マニュアルでコース特性をインプットするという信じられない手法で運用されていました。
著しい高速化を招いたため翌93年を最後に禁止されオーパーツ化したこの技術ですが、次世代F1規約ではエンジンパワーの減少によって起こる減速分を補う装置として導入が議論されるなど、今なおF1界で通用するポテンシャルを秘めたデバイスと言えます。
最速のマシンでこれまでの苦戦が嘘のようにタイトルを獲得したマンセル。しかし最速マシンを有するがゆえにシート獲得競争が過熱し、セナやプロストが加わったことで話は高度に複雑化。結果を出しながら政治的な要素に振り回されることを嫌ったマンセルはこの年の王座を手土産にF1を離れ、北米CARTへ移籍してデビューイヤーでタイトルを獲得します。
94年にはプロストの引退とセナの事故死によってタレント不足を危惧したバーニーの仲介でウイリアムズに復帰し、コンストラクターズタイトルに貢献する1勝を挙げました。翌95年はマクラーレンに移籍したもののわずか2戦でチームを離れ、これが実質的なF1引退となっています。
キャリア開始以前は航空宇宙技師として働くなどエンジニアリング知識にも長けていたマンセルですが、1980年のF1デビューから長らく苦戦が続き、実力が認められながらも初の戴冠まで12年も擁しました。しかし敗れても戦い続ける姿勢は母国の支持を集め、大英帝国の獅子として今なお根強い人気を持ちます。
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