大混迷のシーズン
【ミニチャンプス ウイリアムズFW08 K.ロズベルグ 1982】
1982年は政治と悲劇にまみれたシーズンで、水タンク事件を契機にFISA(現FIA)とCOCA(現FOTA)が対立。一部レースでボイコットが行われ混迷を極める中、タイトル争いは初優勝5名を含む11人のウィナーによって繰り広げられた、歴史に残る大混戦となりました。
全16戦中、上位11戦の有効ポイント制で争われた1982年シーズン。開幕を2連勝で迎えたプロストでしたが9度無得点で王座争いには絡めず、続いて台頭したフェラーリのジルとピローニはサンマリノGPでの悲劇が契機となったかのように事故死とクラッシュによる重症で相次ぎ戦線離脱。混乱する中盤戦ではマクラーレン勢の復帰したラウダとワトソンが2勝ずつを挙げ存在感を表します。
後半にはフェラーリを継いだタンベイ、初優勝を挙げたデ・アンジェリスの活躍もあり、ロズベルグがシーズン初優勝を果たしたのは第14戦スイスGPでのことでした。ここで首位のワトソンを逆転すると、最終戦ではワトソンがタイトル獲得に絶対に必要な優勝を2年目のアルボレートに奪われたことで終戦。ロズベルグは1958年のホーソン以来となる1勝での年間王者獲得となりました。
FW07の後継機として更なるウイングカー開発が進んだFW08はショートホイールベースとターボではない軽量なDFVエンジンを搭載したことでハンドリング性能が向上し、ロズベルグは有効11戦のうち6度の表彰台を含む10度のポイント獲得でタイトルを引き寄せました。
一方でロータス総帥、コリン・チャップマン氏によって持ち込まれ瞬く間にF1を席捲したグラウンドエフェクトカー(ウイングカー)ですが、高速化によるこの年の相次ぐ死亡・重大事故を受け翌年から禁止に。さらにシーズン後にはコリン・チャップマン自身も急逝してしまい、F1のテクノロジーは翌年から大きな変更を迎える必要にさらされました。
わずか1勝のチャンピオンとはいえ、この年の混戦具合は11名のウィナーがいながら3勝以上はゼロという具合だったので、決して1勝が取沙汰されて悪いという話ではないと思います。
78年にセオドールでデビューしてからは長らく下位チームを渡り歩きましたが、この年にジョーンズの引退でウイリアムズのシートを獲得すると相方ロイテマンがフォークランド紛争を契機に離脱したことでチームリーダーにスピード昇進。目まぐるしい展開の中でつかみ取った見事な栄冠です。
翌年以降はウイリアムズ・ホンダのエースドライバーとしてホンダターボの開発に尽力。最後はマクラーレンに1年のみ移籍して、プロストのタイトルをお膳立てをしてF1から去ります。
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